もうひとつの正義
イギリスは、アジアでの自国の戦争を忍耐の物語として記憶したがる。泰緬鉄道、ジャングルを抜ける長い反攻、勇敢な第14軍。その物語はたいてい1942年2月15日を飛ばす。シンガポールが陥落した日だ。「東洋のジブラルタル」と呼ばれ、帝国を永遠のものにするはずだった要塞は、島での戦闘わずか1週間で降伏し、約8万人のイギリス、インド、オーストラリアの兵士が捕虜になった。チャーチルはこれを英国史上最悪の惨事にして最大の降伏と呼んだ。このときばかりは誇張ではなかった。
数週間のうちにオランダはジャワで降伏した。仏領インドシナはすでに東京の指示に従っていた。イギリス軍はビルマからインドへ退却していた。日本の戦争がほかに何であったにせよ(実際、ほかにも多くのものであったのだが)、それは百年のあいだどんな請願書や民族主義者の大会にもできなかったことを成し遂げた。白人の植民地支配者は打ち負かせるのだということを、何百万ものアジア人の前で、素早く、公然と示したのである。その神話は二度と元に戻らなかった。
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遺産
日本は軍隊も残した。ジャワでは、インドネシア人による義勇軍PETA(郷土防衛義勇軍)を訓練した。その将校たちは、1945年から1949年にかけてオランダの復帰と戦った軍の中核となった。ビルマでは、アウンサンと「30人の志士」が日本軍将校の訓練を受け、ビルマ独立義勇軍を創設した。スバス・チャンドラ・ボースのインド国民軍は日本軍とともにインドへ進軍した。1945年に帰国を拒み、インドネシア独立のために戦って死んだ日本兵もいた。
ヨーロッパ人が戻ってきたとき、彼らの臣民はもう彼らを信じていなかった。インドネシアは日本の降伏の2日後に独立を宣言した。ビルマは1948年に、マラヤは1957年に独立した。イギリスは、ささやかながら評価すべきことに、最終的には自ら去った。オランダは戦いと恥によって追い出されなければならなかった。
これが汎アジアの遺産である。旗ではなく、アジア人に外国の主人はいらないという確信だ。
新しい主人
そこへ新しい主人の候補が現れた。1955年のバンドン会議で、北京は帝国主義の被害者仲間としてアジアとアフリカの前に姿を見せた。同じころ、北京はこの地域の共産党に武器と資金を与えていた。
1948年に武装闘争を始めたマラヤ共産党は、のちにラジオ局「マラヤ革命の声」を中国領内から放送した。タイ共産党の放送は雲南から流れた。1967年以降、北京はビルマ共産党のラングーン政府に対する戦争に、武器、資金、そして「義勇兵」を大量に送り込んだ。クメール・ルージュがカンボジアの都市を空にしたとき、中国は彼らの最大の外国の後ろ盾だった。
これは赤い旗の下の植民地主義だった。これらの党は外国の首都から金と指示を受け取り、勝利すればその首都に従う国家をつくるはずだった。北京は反植民地主義の言葉を使うことを一度もやめていない。ただ次の植民地宗主になりたかっただけだ。
拒絶
東南アジアは拒んだ。マラヤは12年に及ぶ「非常事態」で共産党の反乱を打ち破った。タイは1980年代初めまでに国内の反乱を崩したが、その主な手段はジャングルから出てくる者への恩赦だった。1967年には5か国がASEANを設立したが、その目的の一つは転覆工作に対する共同戦線だった。
北京の代理勢力が実際に勝った場所、カンボジアでは、その結果はクメール・ルージュであり、人口のおよそ4分の1の死だった。
それでも全体としての結果は揺らがなかった。北京が代理党を通じて奪おうとした国のうち、北京の望む長期的な衛星国になった国は一つもない。クメール・ルージュでさえ4年ともたなかった。
もうひとつの正義
日本は戦争に負けた。だが日本が残した確信は、日本よりも長く生きた。東南アジアの人々はそれをまずイギリス、オランダ、フランスに向け、次に北京に向けた。今もそうしている。2016年に南シナ海をめぐる仲裁でフィリピンが勝ったことから、係争海域へ船を出し続けるベトナムの漁民まで。
これはもうひとつの正義だ。どの法廷が下したものでもない。1942年に、主人も倒れうると学び、それを決して忘れなかった人々が担ってきたものである。
イギリスは今も1942年をイギリスの悲劇として記憶したがる。だが実に多くのアジア人にとって、それは未来が始まった日だった。